2026年8月31日、トランプ米大統領は、アステラス製薬、協和キリンを含む製薬企業9社と、「MFN(Most-Favored-Nation:最恵国)価格政策」に関する合意を締結したと発表しました。
今回合意したのは、アルコン、アステラス製薬、ビーワン・メディシンズ、ブリッジバイオ、CSL、協和キリン、サンファーマ、テバ・ファーマシューティカルズ、UCBの9社です。
これによってMFNに関する合意企業は合計26社となり、米政府によれば、米国のブランド医薬品市場の89%をカバーする規模になったとしています。
私が注目する点は、日本企業としてアステラス製薬、協和キリンが加わったことです。この政策は日本の製薬業界にとっても、いよいよ「米国だけの話」とはいえなくなってきました。
案外、「MFNって何?」ってマーケターもいるかもしれません。でも、これは、将来の日本の製薬ビジネスを考える上で、大きな転換点となる可能性を秘めた動きです。
本稿では、そもそも「MFN」とは何なのか。「MFNに合意する」とは何に合意したのか。そして、日本の製薬企業にどのような影響が考えられるのかを、製薬マーケターのみなさんに向けて、できるだけシンプルに整理してみたいと思います。
1.そもそも「MFN」とは何か、「MFNへの合意」の意味は?
MFNは「Most-Favored-Nation」の略で、日本語では「最恵国」と訳されます。
トランプ政権の問題意識をシンプルにすると、「同じ薬なのに、なぜ米国だけが他の先進国より高い価格を払っているのか」ということです。
たとえば、ある薬の実質的な価格が、
米国:100 日本:50 英国:60 ドイツ:70
だったとします。
米国からすれば、「他の先進国にはもっと安い価格を提供しているのだから、米国にも同じような価格を提供してほしい」となります。これがMFN価格政策の基本的な考え方です。
トランプ大統領は2025年5月、米国の医薬品価格を他の先進国が支払っている水準に近づけることを目指す大統領令に署名しました。
その背景には、「米国が高い薬価を負担することで世界の医薬品イノベーションを支える一方、他の先進国は政府による価格規制によって相対的に低い価格で医薬品を利用している」
というトランプ政権の問題意識があります。
私は、MFNを単なる「米国の薬価引下げ政策」と考えると本質を見誤ると思っています。
「医薬品イノベーションのコストを、米国だけでなく他の先進国にも、もっと負担してもらおう」という考え方が根底にある政策といえると考えています。
では、「MFNに合意する」とは何を意味するのか?
「アステラス製薬や協和キリンがMFNに合意した」といっても、米国で販売するすべての医薬品を、世界で最も安い価格にするという意味ではありません。
今回の合意は、米国政府と各製薬企業との個別の合意であり、価格だけでなく、今後の新薬の価格設定や米国内への投資、医薬品供給なども含まれています。
その中でも重要なのが、MedicaidへのMFN価格の提供といえます。
2.「MedicaidにMFN価格を提供する」とは?
Medicaid(メディケイド)は、低所得者、子ども、妊婦、障害者などを主な対象として、連邦政府と州政府が共同で運営する米国の公的医療保障制度です。
今回の合意によって、全米の州のMedicaidプログラムが、対象製品についてMFN価格へアクセスできると米政府は説明しています。
ただ、「MedicaidにMFN価格を提供する」ことと、「米国全体の薬価がMFN価格になる」ことは別です。
ここは分かりにくいので、詳しく説明すると、米国には、日本のような全国一律の公定薬価がありません。
同じ医薬品でも、「Medicaid」「Medicare」「民間医療保険」「患者の自己負担」などによって、実際の支払価格やリベートの仕組みが異なります。
つまり、MedicaidにMFN価格が提供されたからといって、Medicareや民間保険での価格まで自動的に同じ価格になるわけではありません。
ただし、Medicaidでの価格設定が、製薬企業の米国全体の価格戦略や、他のpayerとの価格交渉において引き下げ圧力として使われる実務的なリスクはあります。
一方、Medicareについても、Part Bを対象とするGLOBEモデル、Part Dを対象とするGUARDモデルなど、国際価格を参照する別の仕組みが進められています。つまり、MFNの考え方自体はMedicaidだけに限られたものではありません。
3.MedicaidでMFN価格を実現する「GENEROUSモデル」
MedicaidでMFN価格を実現する仕組みが、CMS(Centers for Medicare & Medicaid Services)が進めるGENEROUSモデルです。
正式名称は、「GENErating cost Reductions fOr U.S. Medicaid Model」です。
この仕組みをシンプルに説明すると、「海外の実質的な医薬品価格を参考にして、メーカーから追加のリベートを受けることで、Medicaidの実質負担額を引き下げる」というものです。
GENEROUSモデルについて、下図に示してみました。
このように、製薬企業が米国のList Priceそのものを100から40に変更するのではありません。
追加リベートによって、Medicaidにとっての実質的なNet PriceをMFN水準まで引き下げるという仕組みです。
4.では「MFN価格」はどう決めるのか
私がGENEROUSモデルで最も注目しているのが、参照国に日本が含まれている点です。
参照国は日本を含めた8か国となっています。
この各国について、単純な公表価格ではなく、リベートやディスカウントなどを反映したNet Price(実質価格)を比較します。
さらに各国の物価水準の違いを考慮するため、PPP(購買力平価)による調整を行います。
そして、8カ国の中で、「2番目に低いNet Price」をMFN価格のベンチマークとします。
つまり、「世界で最も安い薬価をそのまま米国に適用する」という単純な仕組みではなく、日本の公定薬価がそのまま米国のMFN価格になるということでもありません。
ただし重要なのは、日本が明確に参照国の一つに含まれているという点です。
5.既存薬だけではない。「これから発売する新薬」も重要
私が今回の発表でもう一つ気になったのが、新薬の扱いです。
アステラス製薬は今回の合意について、「今後上市する医薬品については、他の先進国の価格水準を踏まえ、グローバルでの市場環境、イノベーション、患者にもたらす価値を適切に反映した価格設定を行う」と発表しています。
また協和キリンも「対象となる新製品を、より均衡の取れた価格体系のもと、他の先進国においても発売する」としています。
私は、この言葉は、今回のMFNを考えるうえで非常に重要だと思います。
MFNは単に「米国の既存薬の価格を下げる」だけの政策ではありません。
今後の新薬について、「世界各国でどのような価格体系を作るのか」というGlobal Pricingそのものに影響する可能性があるからです。
6.なぜ製薬企業はMFNに合意するのか
「自社製品の価格引下げにつながるのに、なぜ製薬企業はMFNに合意するのか?」
みなさんも不思議に思いませんか。
これを理解するには、MFNを単なる「政府からの値下げ要求」と考えない方が分かりやすいと思います。
トランプ政権は、医薬品価格だけでなく、「関税」「米国内への投資」「研究開発・製造拠点」「サプライチェーン」「世界最大の米国市場へのアクセス」などを含めて製薬企業と交渉しています。
つまり、価格だけではないということです。
MFN価格に合意し、米国内への研究・生産投資などを表明した企業については、関税措置の一部免除なども行われています。
製薬企業側からすれば、「価格を下げるか、下げないか」だけではなく、「世界最大の医薬品市場である米国で、今後どのように事業を行っていくのか」という、より大きな経営判断になります。
その意味では、「MFN価格への参加」というより、米国政府と製薬企業との包括的なディールと捉えた方が実態に近いと私は考えます。
なお、企業ごとの合意条件がすべて公開されているわけではありません。
今回の9社は、米国内の製造に少なくとも合計196億ドルを投資するとされています。
また、一部企業は医薬品原薬を米国の戦略備蓄に提供します。
アステラス製薬は、臓器移植後の拒絶反応予防に使用される免疫抑制剤タクロリムスの原薬25kgを、SAPIR(戦略的有効医薬品成分備蓄)へ提供します。
協和キリンも、ノースカロライナ州サンフォードに総投資額5億3000万ドルのバイオ医薬品製造施設を建設しており、2027年の稼働開始を予定しています。
これらを見ても、今回の合意が単なる「薬価引下げの契約」ではないことが分かります。
7.では、日本にはどのような影響があるのか
ここからが、日本の製薬企業にとって重要なところです。
日本では医療用医薬品の価格は、公的な薬価制度によって決められます。
製薬企業が、「米国のMFNに影響するから、日本でこの薬を20%値上げしよう」と自由に決めることはできません。
これまでは、米国では高い価格、日本では公的薬価制度に基づく相対的に低い価格という状態がある程度共存できました。
しかし、MFNによって日本を含む他国のNet Priceが米国の価格にも影響するようになると、製薬企業にとって日本で得られる価格の意味も変わってきます。
日本で低い価格を受け入れることが、世界最大の医薬品市場である米国での収益性にも影響する可能性が出てくるからです。
MFN政策を理解するうえで、私はここが非常に重要だと思います。
トランプ政権が目指しているのは、「米国の薬価を下げる」ことだけではありません。
その根底には、「医薬品イノベーションのコストを米国だけが大きく負担する構造を変えたい」という考え方があります。
一方、製薬企業からすれば、米国価格だけを大幅に引き下げれば、グローバル全体の収益性が低下します。
そこで今後、米国の価格を下げると同時に、他の先進国でもイノベーションに見合った価格を求めるという動きが強まると考えられます。
協和キリンが今回、「より均衡の取れた価格体系」という表現を使っているのは、象徴的だと思います。
つまりMFNは、世界の新薬価格の“ばらつき”を縮める方向に作用する可能性があるということです。
8.日本のドラッグラグ・ドラッグロスへの影響は?
そこで気になるのが、日本が現在取り組んでいるドラッグラグ・ドラッグロス対策です。
グローバル企業は新薬の上市を考える際、「どの国で」「いつ発売し」「どの程度の価格を得るのか」を世界全体で考えます。
さらにMFNによって、その国で設定された価格が、他国の価格にどう影響するのかという視点がこれまで以上に重要になります。
これにより、
日本の薬価 ⇒ Global Pricingへの影響 ⇒ Launch Sequenceへの影響 ⇒ 日本市場の上市優先順位への影響
という関係が強まってくると考えられます。
たとえば、「日本で早期に上市し、そこで得られた低いNet Priceが米国の価格に影響しないか」という視点が、グローバル企業の意思決定に入ってくるということです。
私も、過去に製薬マーケターであった頃、日本の薬価が低いということで、グローバルとのやり取りで難渋した経験がありますが、この圧力は更に強まるでしょう。
場合によっては、日本で期待する価格が得られなければ、日本での上市を遅らせたり、開発・上市の優先順位を下げる、あるいは日本では開発しないという判断につながることも否定できません。
もちろん、これはMFNによって必ずドラッグロスが起きる、という意味ではありません。
しかし、「日本の薬価は日本だけの問題ではなくなってきている」という点は、これまで以上に意識する必要があると思います。
9.製薬マーケターは何を理解しておくべきか
私は、MFNを製薬マーケターの視点から見て、少なくとも次の4点は押さえておく必要があると思います。
① 薬価は「一国だけ」の問題ではなくなっている
日本の薬価が米国の価格戦略に影響し、米国の政策が日本の薬価制度にも影響する。
プライシングはますますグローバルな視点で考える必要があります。
② Launch Sequenceがさらに重要になる
新薬について、「どの国で、いつ、いくらで発売するのか」というLaunch Sequenceの重要性はさらに高まります。これはMarket Accessだけでなく、ForecastやBrand Strategyにも関係する話です。
③ 「製品の価値」をどう説明するかがさらに重要になる
各国政府が医療費を厳しく管理する一方で、革新的新薬へのアクセスも確保しなければなりません。
その中では、単に「この薬は有効性が高い」だけではなく、患者への価値はもちろん、医療費や医療従事者の負担、さらには社会全体への価値まで含めて説明していく必要があります。
④ 政策を見ることもマーケティングである
薬価制度やMFNのような政策によって、「市場規模が変わる」「Forecastが変わる」「上市時期が変わる」「Lifecycle Strategyが変わる」「投資判断が変わる」のであれば、製薬マーケターにとっても、医療政策や薬価政策を理解することは、これからますます重要になると思います。
まとめ
今回、アステラス製薬と協和キリンがMFNに関する合意企業に加わったというニュースを見て、私が改めて感じたのは、米国の薬価政策が日本の製薬企業にとって、決して遠い話ではなくなってきたということです。
MFNというと、どうしても「トランプ政権による米国の薬価引下げ政策」という部分に目が行きますが、それでは、その本質を見落とします。
私自身はむしろ、「世界の医薬品イノベーションのコストを、どの国が、どの程度負担するのか」という議論だと考えています。
また、Medicaidに加えて、Medicareでも国際価格を参照する仕組みが進められており、MFNの考え方は米国の公的医療保険に広がりつつあります。
日本はGENEROUSモデルの参照国に含まれており、私が特に気になるのは、今回の企業との合意が既存薬だけでなく、今後発売される新薬の価格設定にも関係していることです。
私も製薬企業でマーケティングに携わっていた頃、日本の薬価をめぐってグローバルとのやり取りに苦労した経験があります。
当時も日本の薬価とGlobal Pricingは無関係ではありませんでしたが、MFNの動きを見ていると、その関係はこれまで以上に強くなっていくのではないかと感じます。
どの国で、いつ上市するのか。日本市場の優先順位をどう考えるのか。どの程度の売上をForecastするのか。そして、その環境の中でブランド戦略をどう描くのか。
製薬マーケターもMFNを「米国の薬価の話」で終わらせず、自分たちのビジネスにどうつながってくるのかを考えておく必要があります。
MFNをめぐる動きは、今後の世界の医薬品市場だけでなく、日本の薬価制度、ドラッグラグ・ドラッグロス、さらには製薬企業のGlobal PricingやLaunch Strategyを考えるうえでも、重要なテーマになっていくのではないでしょうか。
今回のニュースを見て、そんなことを感じました。
